彼岸

お盆に行けなかった
じいちゃんの墓参りへ

43年生きてきて
身近な人の死が
じいちゃんだけというのは
幸せなことだと思う

はじめて人が死ぬという意味を
実感したのはその時で
子供の頃に簡単につかっていた
「死ね」という言葉は
あれ以来使っていない

先日、そのじいちゃんの建てた家が
取り壊しになり
わかってはいたものの
忙しさを理由に行けないでいた
予定よりも早く業者が入り
行けた時には半壊状態で
なんとかいくつかの思い出を
救出したものの
どうしてもっと早く行けなかったのかと
後悔ばかりが残る

字の如く
後悔はいつも後からやってくる

当時の人としては
スラリと背が高く
無口で恐かったけど
かっこよかったじぃちゃん

思い出すのは
紐のついた干し柿を首からぶら下げて
外の見える窓際に立っている姿

ポケットから取り出した
ティッシュで鼻をかんで
それをまた丁寧に畳んで
ポケットに戻す仕草

じぃちゃん、そちらの世界はどうですか?
孫という私が産まれた時、
どんな気持ちでいましたか
どんな眼差しを
送ってくれていたのでしょうか



(とんこ)

なんとか納めた一枚。後悔はいつも先には立たない。
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